古蜀国はどこに行ったか? -三星堆遺跡を見てー

画像画像















飛び出した目と大きい耳をもつ不思議な青銅製仮面で有名な、中国四川省の成都に近い三星堆遺跡の博物館を訪問した。20年近く前にも知人の案内で短時間見学したが、この仮面の印象は強烈であり、もう一度見たいと思っていたのがやっと実現した。


最初の写真に示した青銅製仮面は、幅が138cm、高さ64cmの巨大な仮面であり、飛び出した目は遠く(未来をも?)を見通す力を示しているのではないかと推測されている。青銅製の頭部像はいくつも展示してあるが、表面に金箔の薄板をつけた頭部像もあった。独特の表情をしており、極めて印象的である。青銅製の人物立像は、台座まで含めると2.6mに達する大きなものである。長い衣装をまとった祭司(シャーマン)の姿であるとの説明だが、顔の表情は頭部像と似ている。


画像画像

















画像画像








































この遺跡の大がかりな調査は1980年代に始まり、大量に見つかった青銅の仮面、神樹、土器などは大きな反響を呼んだ。中国文明としては黄河文明が最古と考えられてきたので、長江の上流地帯でこのような文明があったことは驚きであり、中国あるいは世界の歴史を書き換えることになった。


文明誕生についての歴史の常識は、近年の新しい遺跡の発見で大きく書き換えられてきた。世界各地での新たな遺跡の発掘により、文明誕生の多様性が認識されて、かつての四大文明という言葉は使用されなくなった。さらに、農業、定住化、都市、宗教、神殿などいう歴史の基本的流れも、ギョベクリテペ遺跡で変更された。東トルコの南部にあるこの遺跡は、紀元前9500年ころ狩猟民が造った巨石構造群(神殿)である(参照 ギョベクリテペ遺跡を見て)。農業と定住化の前に、このような巨大な神殿が建設されたことは、世界中に驚きを与えた。


三星堆遺跡の発掘で大規模な住居や城壁の跡が見つかり、古代王国の都と推定された。紀元前2800年からおよそ2000年近く続いた王国跡である(縄文時代の後期、晩期に相当)。初期は石器と陶器のみであるが、それ以降では青銅器の仮面、神樹(扶桑の樹)、立人像など多様な出土品がある。この三星堆文化は、紀元前800年ころには消えてしまったが、2001年に成都市の中心に近いところで発見された金沙遺跡は、三星堆文化を受け継ぐことが分かった。しかし、それ以降は継続する文化は見られず、歴史から消えてしまった。


画像


なぜにこれだけ繁栄した古代国家が消え去ったのか、大変不思議でありネットで調べた。その結果、NHKのスーパープレミアム 「秘境中国 謎の民 天頂に生きる ~長江文明を築いた悲劇の民族~」(2017年放映)にて三星遺跡についての興味深い話があるとのこと、早速NHKオンデマンドに登録して番組を見た。主な内容は、楽山に近い大涼山の3000m以上の高地に住むイ(彛)族という少数民族についてのドキュメンタリーである。主題は彼らこそ三星堆遺跡の古代国家を担った人々の末裔ではないか、という推測である。


画像


研究者によると、イ族のシャーマン(ピモと呼ばれる)の使用する経典(代々引き継がれてきた)の文字と遺跡で見られる文字とが一部で一致する。また、死者の儀式でピモが死者の霊に呼びかける時、祖先のいた場所に着くように指示をするが、その行先をたどると、三星堆遺跡の場所になるということだ。以上の調査から、彼らが古代国家の末裔と推測している。


それでは、なぜに彼らがこのように人里を離れた高地に住むようになったか、歴史の経過から説明している。東晋時代に編纂された「華陽国史」に簡単な記述があるとのことだ。紀元前316年に秦が侵入してこの国(古蜀国と名付けられている)を滅ぼしたこと、紀元前2世紀に漢の武帝がこの地に益州を設置して中央集権を強めたこと、さらに諸葛孔明が漢民族による支配を徹底させたとのことである。このように、古蜀国の人々は侵入者により次々と追い払われ、最後には人里を遠く離れた高地にまで逃げ延び、イ族の文化と伝統を守ってきた。 


以上が番組の主な内容であるが、このような苦難の道を長年歩んできても、「人の和を大事にする」という伝統を大事にしている様子に感銘を受けた。さらにネットで調べたら、イ族の学校(涼山州民族中学)で教えていた日本人教師の記事も見つけた。これもまた大変興味深い。教師として赴任した時に、イ族の先生や生徒から、「日本人の先祖はイ族という話を聞いたことがある?」と質問されたとのことだ。イ族の人たちの伝承である。実際にイ族の人たちの顔立ちや文化も日本と似ており、親近感を感じたとのことである。


日本では弥生時代に多くの人々が大陸から渡来してきた。渡来系弥生人の一部は長江流域や江南地方から来たことが、最近のDNA分析から明らかになっている。当時の中国大陸では戦乱が続き、さらに秦が拡大して肥沃な土地は侵略の対象になった。そのような状況から新天地を求めた人たちが移動してきたのであろう。したがって、イ族の人たちも渡来系弥生人に入っていた可能性は極めて高い。イ族の人たちの伝承に日本が含まれていることは、大陸に残されたイ族と日本に来たイ族との交流があったからであろう。


このように調べてみると、三星堆遺跡の数々の青銅仮面や青銅立人像が急に身近に感じられるようになった。こだわりを持ってこの遺跡の展示物を見たいと思ったのは、私の中にも彼らの遺伝子が残っているためかもしれないと、妄想は広がっていく。



画像画像

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 27

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

水戸雄二
2019年05月01日 14:23
先生、さすがですね。あらためて勉強になりました。写真も素晴らしいです。
ろごす
2019年05月02日 09:43
コメントありがとうございます。金沙遺跡博物館に寄れなかったのが残念でした。

この記事へのトラックバック